[出征した祖父の手記] シンガポールに出征し、捕虜生活を経て無事に帰還しました

家族

大正生まれの私の祖父は、出征し、シンガポールで終戦を迎えました。
生前、祖父に戦争のことを書き残すことをお願いし、手紙を頂きました。(平成元年)
日本国民一人の手記ですが、貴重な記録になるかもと思い、ここに残したいと思います。
なるべく原文のまま掲載したため、一部、読みにくいところがあることをご容赦ください。

大東亜戦争:シンガポールに出征した祖父の思い出

昭和16年12月シンガポール占領して翌年17年2月
赤、紙切1枚入り召集された。
約1ヶ月後、大阪御堂筋のお寺に入りいよいよ出発の時が来た。

祖父は大阪の堺に住んでいました。私の父は昭和17年4月に生まれたため、祖母のお腹が大きな頃に出征したことになります。

其の時の部隊長の訓示の中に、お前たちは決して生きて帰れると思うな
其の時ポトリと涙がこぼれ落ちた。そして夕方、梅田の貨物駅に着いた。

JR梅田駅の北側に貨物ターミナルがありました。2023年から再開発中で公園になる予定です。

兵隊一同、列車に乗り、着いた所は広島の宇品。朝の7時半だった。
向こうに見ると大きな輸送船が見える。

広島市を流れる太田川の河口にある宇品港は、大型船が着岸できる軍港でした。そのため多くの軍人が宇品港から出征しました。

いよいよ其の船に乗り出船、もう東も西も分からない見渡すかぎり青い海ばかり。
まず一番に着いたのは台湾、二番目に着いたのは香港、三番目はマニラ、四番目はシンガポール。
いよいよ上陸の命令が出た。
すると先の部隊長は岸壁で我々一同を向かいに来ていたのである。

南方陸軍病院での勤務

着いた所は南方陸軍病院(岡6091部隊)。其の後日々の勤務に従事す。
夜間勤務につくと南十字星を眺め、時折内地の事を思い出した事はいく度もあった。

南方陸軍病院(岡6091部隊)の入院患者名簿が国立公文書館デジタルアーカイブに保存されています。

第一線で戦っている兵隊が次々と病院に送られてくる。
其の中には傷の中にうじ虫がわくほどのひどい患者もいる。
毎日十数名の患者が送ってくる忙しい毎日である。
夜になると暑い南方特有の蚊がとんでくる。
一年中かやの中で休む事に成る。
内地では冬のお正月でも、一年中水のシャワーを浴びる。
でも時々大きなスコールが来るので暮らして行けたようなものである。
そうしているうちに半年余りクアラルンプールとタイにも行き、色々と思い出があります。

シンガポールで終戦

やがて終戦の時が来た。
昭和20年8月広い運動場で昭和天皇の敗戦の言葉を耳にした。
其の時はまさか日本が敗れたとは思いもしなかった。
しかし日がたつにつれ、日本軍の兵器はすべて英國軍の手によって押収され、其の時、初めて日本の敗戦を感じたのである。

南の島での捕虜生活

そうして居るうちにシンガポールのはるか南の島に送られてしまったのである。
其の島は何一つない無人島である。

シンガポールから南へ60km沖合に位置するインドネシアのレンパン島のことだと思われます。船を入手しない限り脱出できないため、捕虜を隔離するのに有利だったと考えられます。十分な食料が与えられず、復員前に多くの日本兵が亡くなっています。

さてぽつぽつと食料品がなくなってくる。
家は天幕をつなぎ合わせ、床は草をひき、其の上に毛布を敷き休んだ。
食事といえば飯盒のふたに米一杯、それを四人で分け合って食べなければならない。
副食といえばゴムのような新芽、野草、時にはどぶ川で小さい魚を取って命を繋がねばならない。そんな生活を何日かしているうちに体が衰弱する。
そこで体力が弱いものはマラリア熱にかかり死んでいく。
亡くなった兵隊をどこに埋葬するのか、我々にはわからない。
自分の身を守るので精一杯。人のことまでかばうことはできない。哀れなことである。

日本への帰還

そして昭和21年6月30日内地帰還命令が出た。
出発と同じ宇治に上陸。山陽線で列車の窓から見ると黒い黒人兵が多くいるのを見て、そこで又、日本は敗戦国だと思い、哀れな思いをした。

しかしはや40年過ぎた現在は世界平和あり、また日本の生活も豊かであることはいふまでもなく、これからは老いも若くも頑張って日本を栄える事にしましょう。
まだまだ細かい事は山ほどありますが、今日はこの辺で筆を止めます。

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